今日は社内で、職人さんの工賃についての話し合いをしていました。
今夏に各メーカーで価格改定があり、材料の仕入価格はすでに値上がりしています。
一方で、こちらの仕入価格が上がったからといって、元請けからの発注金額がすぐに同じように上がるわけではありません。
以前の単価で決まっていた仕事もありますし、新しい価格での見積りを提出して、それが実際の発注金額として反映されるまでにはどうしても時間差があります。
それが最近になって、ようやく元請けからの発注金額にも値上げ後の価格が反映され始めました。
材料はどれだけ上がったのか。
それに対して請負金額はどれだけ上がったのか。
その差を見ながら、**「では職人さんの工賃をどこまで上げられるのか?」**を検討するのが今日の会議です。
材料だけ値上がりして請負金額が変わらない状態では、工賃を上げようにも原資がありません。
でも請負金額の方にも値上げが反映され始めれば、その中から会社として必要な粗利を確保したうえで、職人さんへ還元できる余力がどのくらいあるのかを考えられるようになります。
とはいえ、やっていること自体はそんなに難しい話ではありません。
普段の現場でやっている「原価管理」と何ら変わらないんですよね。
これまでの材料単価を現在の仕入価格に置き換えて原価を出す。そこに新単価になった契約価格を当てはめて粗利を計算する。
そして以前の数字と比較して、
「材料費はこれだけ上がった」
「請負金額はこれだけ上がった」
「今までと同じくらいの粗利を確保するなら、工賃はここまで上げられる」
と考えていくだけです。
使っている計算も、足し算・引き算・掛け算・割り算と割合くらいのもの。
小学校で習う算数に、中学校で習う数学……まで行くのかな?というくらいの内容です。
ところが、うちの若手社員。
「これってどうやって計算するんですか?」
って始まります。
「これまでやってきた原価計算を、新価格でとりあえず出して。そっから比較しよう」
と返しても、
「わかりません……」
いやいや。
これまで使っていた単価を新しい単価に入れ替えて、同じように合計や利益率を出せばいいだけなんだけど……。
それが分からないとなると、「これまでの原価計算では何をやってたんだ?」とも思ってしまいます。
もちろん、数字を分かりやすく表にまとめるとか、どの数字とどの数字を並べれば変化が伝わりやすいかとか、そこから何を読み取るかという部分になると経験やセンスの差も出てくるでしょう。
そこまで最初から求めているわけではありません。
まず計算して、数字を出してほしいだけなんです。
しかも、その計算自体は義務教育で習ってきたことの組み合わせです。
ここで、ふと思いました。
義務教育って、何のためにあるんでしょうね?
もちろん学校教育には、読み書きや計算だけではなく、集団生活や社会性を身につけるなど、いろいろな役割があると思います。
だから「仕事で計算ができない人がいた=義務教育に意味がない」という単純な話ではありません。
ただ、少なくとも社会に出た時に必要になる最低限の「読む・書く・計算する」くらいは、ある程度使える状態にして社会へ送り出すことも、義務教育の大切な役割なんじゃないでしょうか。
テストで一度正解できた。
授業で一度習った。
卒業するための成績は取れた。
それだけでは、社会に出た時に使えなければ意味がありません。
算数の文章問題なんて、子供の頃には「こんなの将来何に使うんだ?」と思った人も多いでしょう。
でも実際に仕事をしていると、あれの連続なんですよね。
「材料がこれだけ値上がりしました」
「売値はこれだけ上がりました」
「これまで利益がこれだけありました」
「では、工賃はいくらまで上げられるでしょう?」
数字が違うだけで、ほとんど文章問題です。
学校なら問題文の最後に「答えなさい」と書いてありますが、仕事では自分で「何を求めればいいのか」から考えなければなりません。
むしろ社会に出てからの方が難しい。
だからこそ、その土台になる義務教育レベルの知識くらいは、ちゃんと使えるようになっていてほしいと思うんです。
最近は「できる子とできない子の差が広がっているのかな?」と感じることもあります。
地方の中小企業という立場で考えれば、人材不足の影響もあります。
進学や就職を機に大都市圏へ出て、そのまま戻ってこない人もいるでしょう。
そうした中で採用して育てていかなければならない地方企業側としては、「学校を卒業しているから、このくらいはできるだろう」という前提そのものが通用しなくなってくると、かなり大変です。
もちろん適材適所という考え方もあります。
数字が苦手なら、そもそも数字を扱う仕事が適所ではないのかもしれません。別の仕事なら能力を発揮できる人だっているでしょう。
人によって得意不得意があるのは当然です。
ただ、それとは別に、
社会生活を送るための最低限の基礎学力を、どこまで身につけさせてから社会へ送り出すのか。
これはもう少し考えてもいい問題なんじゃないでしょうか。
「分からなくても進級できる」
「苦手でも卒業できる」
ということが結果として本人のためになっているのか。
できないことを厳しく指導するのが良くないという方向に行き過ぎて、社会に出て本人がもっと困ることになってしまえば、それも違うような気がします。
ここで言う「厳しくする」というのは、怒鳴ったり、できない人を切り捨てたりすることではありません。
最低限必要なところまでは、分かるまで教える。できるようになるまで繰り返す。
そういう意味での厳しさです。
学校で習った知識を全員が完璧に覚えている必要なんてありません。
私だって今さら難しい数学の問題を出されたら解けません。
でも、日常生活や仕事で普通に登場する計算や文章の読み取りくらいは、社会に出るための基礎体力みたいなものじゃないでしょうか。
今回やっていたのも、別に高度な経営分析ではありません。
新しい金額を入れて、計算して、前の数字と比べる。
ただそれだけ。
だから余計に、
「そんなに難しい問題やってないんだけどな~」
と思ってしまったんですよね。
義務教育は「卒業させるため」にあるのか。
それとも「社会に出て困らない最低限の力を身につけてもらうため」にあるのか。
後者も大切な目的だとするなら、分からないまま先へ進ませる優しさだけではなく、できるところまで教える厳しさも、本当は必要なんじゃないかな。
そんなことを考えさせられた一日でした。